地球上の環境問題は、近年世界的な高まりをみせ、我が国でも小学校、あるいはもっと早く幼稚園、保育園段階から環境問題を教えようという動きが活発化している。それはそれで結構なことかもしれないが、はたしてこれらの「大きな問題」がどこまで子どもたちにとって理解でき、生きて働く力となりえるだろうか。いや、子どもに限らない。我々大人でも、これらの「大きな問題」をどこまで理解し、日々の生活に実践できているだろうか。
どうも我々は、このような大きなテーマに弱いようである。キャッチフレーズとして口々に唱えるが、実際は問題の解決に対して少しも役に立っていないことがままあるのである。このようなことを考えながら、もっと身近で楽しい環境教育プログラムはないのだろうかと探しているとき出会ったのがネイチャーゲームであった。ここでは、ネイチャーゲームの解説を加えながら、自然とのふれあいの楽しさ、すばらしさについてふれてみたいと思う。
我々人間は、五感というものを持っている。これは、いってみれば五つの情報の取り込み口を持っているということである。五感を通した五種類の情報を駆使することによって、我々は対象をより深く、豊かに知ることができる。
現代社会では視覚にばかりウェイトが置かれているが、本来人間には視覚以外に四つもの感覚が備わっているのである。眼を閉じて歩み出して、次の踏み出しがもはやできなくなったら、落ち着いて聴覚に神経を集中させてみるとよい。今まで意識しなかった、パソコンの稼働音、外の雑踏、遠くで廊下を歩く人の足音、さらには自分の呼吸音まで聞こえてくることに気づく。眼を閉じたまま、そっと両手であたりを探ると、デスクの表面の適度な摩擦を保持した滑らかな感触やロッカーの金属質のひんやりした感触を楽しむことができる。
このような感覚に気づくことが、ネイチャーゲームの入り口なのである。本来人間の持っている感覚を覚醒させ、自然とのふれあいの楽しさやすばらしさを味わおうというのが、ネイチャーゲームのねらいである。
質問した相手の頭の中には、どうも「ゲーム」という響きから、一定のイメージが構成されるようである。そのイメージは、たとえばテレビゲーム、ゲームセンター、トランプ遊技などの類である。どうも、あまり肯定的なイメージとはいえないようだ。しかしながら、考えてほしい。このまえ広島で開催されたアジア競技大会も”Asian Games”である。ゲームとは、ある一定のルールのもとでの人間の活動の総称なのである。このように広い意味で「ゲーム」をとらえると、ネイチャーゲームの意味するところがみえてくる。すなわち、ネイチャーゲームとは、ある一定のルールのもとに自然とふれあっていく活動なのである。
参加者は一列に並んで、ハンカチやバンダナで目隠しをする。それぞれ前の人の肩に手をかけて、イモ虫をつくる。指導者は先頭の人の手を取り、ゆっくり自然の中の散策を始めよう。このとき、指導者は自然案内人であり、散策中に様々な自然を参加者に感じさせるよう配慮することが大切である。では、参加者はどのような自然を感じることができるだろう。
手のひらを空に向け、片手を高くあげてゆっくりと回転させてみよう。しばらくすると、参加者の手はおもしろいようにみな同じ方向で止まる。太陽の光が、手のひらに心地よいぬくもりを提供してくれているのである。普段ほとんど意識したことがなかった太陽のエネルギーが、手のひらから身体の中へ流れ込んでくるのがわかる。
さらに、注意を手の感覚のアンテナに集中してみよう。微かな空気の動きが、手のひらのセンサーにキャッチされる。今まで気づかなかった森の中のミクロ・ウィンドである。森も、呼吸をしているんだ。森と自分との距離が一歩近づいたような気がする、すてきな瞬間である。
今度は木を感じてみよう。指導者に誘導されてさわった木肌は、ひんやりしている。森の空気と同じだ。木の肌はごつごつしていて、縦方向に樹皮の裂け目が感じ取れる。両手を回すと、ちょうど一抱えほどの太さの立派な木だ。微かな樹液の匂いが心地よい。手を根本の方に這わせていくとひんやりとした柔らかな感触。なんと、この木はコケの靴下を履いていたのだ。そっと頭をもたげると、時々小枝や葉がふれてくる。手探りで葉をさわってみると、縁のギザギザが手をくすぐる。枝の先端にいくにしたがって、葉の感触も徐々に異なってくる。単に大きさが変化するだけではない。直接ふれることによって初めてわかる、微妙な圧力のゆらぎの変化である。触覚を通した樹木との交流は、とてもスリリングだ。
(おわり)