最終更新1997年8月30日

「もののけ」に思うこと

加藤美紀

「見た?」
「ううん、まだ。」
「よかったわよ。又見たい!」
「込んでた?」
「とっても。夕方6時からでも、やっと座れるぐらい。」
「じゃー、最終の8時半からのにするわ。」
という会話の後、夕食を済ませて家族4人で観に行った。あの「もののけ姫」を。

 セル画総数十三万五千枚、直接製作費二十億、ディズニーが世界配給する予定の宮崎駿監督の超大作アニメである。

 「風の谷のナウシカ」の説明しがたい難解な印象ほどではないが、心の中に何かすぐには口に出して言えない思いをかかえて暗い映画館から、夜の町に出た。午後11時というのに明るい。

 ふと、「もののけ」が気になった。もののけの棲むのは闇なのだが、現在、闇はあるのだろうか。明治の後半から暗闇が無くなり始めた日本でも、昭和三十年代は異界を感じさせる池や、その入口とされた山や川は確かにあった。町の中の薄暗い辻には、悪い人を含めた妖怪の気配を感じ、子供の私は薄い闇から逃れるように家路を急いだ。夜、闇に向かうのは、親に連れられてのお祭り、蛍狩り、そして夏休み中の校庭で行われる映画鑑賞(小学生時代、怪談を観た後近所の子供達が押しくらまんじゅうのように、ピッタリとくっついて帰った思い出は、今でも背中に物の怪の気配を呼び覚ます。)ぐらいのものだった。

 その明るい深夜の繁華街に、若い十代と思われる子供達の集団が目に付いた。こんな時間に・・・「もののけ」にたたられなければよいけれどと思った。もしかすると、最近の理解しがたい事件は、棲家を亡くした物の怪を心に棲まわせ始めた子供達がいるという兆候かもしれない。その人達が、私の世代の老後を支えるのだと考えたら、急に恐ろしくなってきた。

 こうなれば、現在の山の神は廃業し、山にでも入って山姥にでもなるしかないかと言うと、傍らの二匹の小鬼ク・ク・クと笑い、「もう立派な鬼ババだ。」と呟いた。

(おわり)