教育に眼をやるとき、このような合理主義的な考え方が相当広範囲にしかも強力に浸透していることに気づく。結果であるテストの点や上級の学校への進学の合否のみが重要視され、そのプロセスがあまり評価されていない。そもそも人間というものは、その成長・発達・成熟において、他の動物と比べて、かなりの時間を必要とし、その過程を否が応でも大切にすることが運命付けられている。にもかかわらず、手間暇が省かれ、その途中が軽く取り扱われている。果たしてこれでいいのであろうか。
そこで、私は提言したい。教育において「体験・経験」を大いに積み重ねるように、と。子どもはその過程の中で、父親の権威を理解すると同時に、母親の深い愛情を理解するであろう。また、子どもはボランティア活動を通して、自分の存在が相手の存在に対してなくてはならない人間の関係を確認することであろう。また、子どもは自然と直接的にかかわり、手足や体を動かすことによって、汗を流すことの尊さを実感するであろう。
あまりにも早くからの、知識中心の教育では、直接的に学ぶことを避けて、間接的に学ぶことに終始してしまう。この種の教育では、必然的に効率万能主義に基づかざるを得なくなる。
つまり、今の人間の教育においては、成長・発達・成熟のための、時間を考慮に入れない、対象と直接関わる本物の対話を通して、主観的に終始してしまうかも知れない、ある何かを達成していく過程が忘れられているのである。実は、真に効率の良い教育とは、過程を省かない、手間暇をかけることを惜しまない教育のことである。したがって、これから必要とされている教育は、「急がば回れ」の精神に支えられた、「成すことによって学ぶ教育」のことである。今すぐに、子ども達を学習机から解放し、家庭、社会、自然の中へ解放してやること、このことがこれからの教育原理にならなければならないように思われる。
(おわり)