最終更新1997年1月1日

行革と子どもの教育・発達

中瀬古 哲

 「行革」という言葉が、連日新聞紙上をにぎわしております。しかしながら、「聖域はない」と称し、何でもかんでも「行革」の一声で、「経費節減」「民間委託」でいいのだろうかと最近考えさせられます。先日も、文教予算の削減の一貫として、教員の新規採用を認めない、との方針案がでていました(文部省の反発は必至とのコメントとともに)。

 教育現場には、ゆとりのある教育の必要性から、他の先進諸国並に30人学級を実現して欲しいとの切実な要望が存在します。色々な矛盾を抱えており、問題も多々存在しますが、日本の学校は、子どもの発達を育み・保障する、地域の教育・文化の拠点であることにかわりはありません。神戸大震災の際には、学校と教員が物心両面で、子どもの学習や生活はもとより、地域住民の「生きる力」を、支え育みました。それは、まさに、学校が、「公共の場」だったからではないでしょうか。

 我が子の健やかな発育・発達を願わない親はいないはずです。現在の日本においては、子どもの生活や文化を大きく規定している学校教育の充実なしに、子どもの健やかな発育・発達は保障されないといっても過言ではありません。しかしながら、「学校スリム化」と称して、学校の機能をできるだけ最小限にとどめようとする動きもあります。これは、経費節減という観点から、「行革」の動きとも符合します。そこでは、子どもが大好きな、図画工作や音楽・体育の「時間数削減」或いは「教科消滅」もあり得ると囁かれています。それが、多くの親の声であり、国民の要望であるのならばよいと思いますが、現段階では十分な議論と国民的な合意形成は存在しないのではないでしょうか。

 税金の無駄遣いを許すことはできません。現在の学校教育のシステムには課題も多く改革は必要だと考えます。しかしながら、社会の宝である子どもの、教育・発達のための予算は、税金の無駄遣いになるのでしょうか。予算の削減というと、何故か、教育(子ども)や福祉(老人)が、すぐにやり玉に挙がります。どうしてでしょうか。生産労働に従事しない子どもや、相対的に労働力が低いと考えられている老人のために税金をかけることは無駄なのでしょうか。少し意見が過激になりましたが、何にこそお金をかけるべきなのか、何が許し難い出費であるのかを十分見極め議論し、行革を押し進めてほしいものです。

 既存の、学校の枠組みや教育システムにこだわる必要はないと思いますが、老若男女が友人を求め語らう集いの場、芸術・音楽・スポーツとの素敵な出会いの場、を「公共の場(コスモス)」として、社会が保障するのはやぶさかではないと思うのですが。例えば、図書館が無料なのと同じように、あらゆる美術館(ミュージアム)やスポーツ施設(スタジアム)が無料で使えたら、などというのは夢のまた夢なのでしょうか。

(おわり)